2ページめ
まずは、口話で2人が普通に会話できていることに驚かされます。
会話の内容は興味深いものです。例えば以下です。
- 木下さんは自分が話しているのを喉の動きで感じている。これは「聞く」と言えるだろうか。
- 口の動きがほぼ同じだと聞き分け(判定)が難しい。たとえば、「たまご」「たばこ」。この2つは口の動きは同じ。木下さんはそれがどちらなのか、を、前後の文脈も手がかりにして判断する。
このような内容を、面白いなぁと思いながら聞いていましたが、途中から、百瀬さんの滑舌が悪くなり聞き取りづらくなりました。口話が成立するのか心配になりました。木下さんは変わらず話しています。
百瀬さんの発音はどんどんおかしくなり、そのうち音声では何を話しているのかわからなくなります。でも会話は続きます。
そして、百瀬さんの声が全く聞こえなくなります。百瀬さんは口だけを動かしています。木下さんはちゃんと受け答えをしています。字幕はずっと出ていて内容はわかります。
映像から聞こえるのは木下さんの声だけです。それでコミュニケーションが成り立っているのです。
衝撃を受けました。
見た後、自分がなぜ衝撃を受けたのか、考えてみました。
まず、感じたのは、音がなくてもコミュニケーションができる、と言う事実。
さらに、私は字幕を見ないと内容がわからないのに木下さんはわかる、そのことに自分は嫉妬しているのではないか、と言うこと。裏返すと、わたしには自分が聞こえることに、ないと思っていた優越感があるのでは、と思いました。
そして、終盤で木下さんの声だけが響くシーンは、木下さんの環境の追体験になっているのかもしれない、と言うこと。
コミュニケーションとは何だろうか?と思わされる映像でした。
この作品については、この展覧会のサイトに作者へのインタビューで紹介されています。ここには、映像がどのように作られたかも書かれており、フィクションであるとも書かれています。実際にこのようなコミュニケーションが成り立つかの実証ではないことがわかります。
それでも、この映像は、私の中にどしんとしたものを残していった気がしています。
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